「そばにいてくれる?」

    うん、と僕は言う。

    「必要だって、言ってくれる?」

    うんいいよ、と僕は二つ返事で済ませる。

    本心が漏れた中身のない言葉が、彼女を不安で焦がしていく。鼻が悪いから、なにも気

 にならない。ゆるゆると漂う旋律が、さっきから僕を寝付かせようとしている。僕として

 はそちらに身体を委ねたい。喉の奥で、眠気と怠惰がなめらかな層になっている。逆流し

 てくるものを僕は舐める。

    僕が連れ去られてしまわないようにせっつく彼女の顔に、いつのまにか雲がまとわりつ

 いている。彼女の顔が見えなくなっていくことに、普段の僕だったら焦っただろうか。な

 だらかな目の表面を濡らしていただろうか。僕が悲しいと思うことが出来るという妄想を、

 彼女が捨てていなかったことに困っている。

    眠気に足を引き摺られながら、空の額縁を彼女に被せた。

    額縁は彼女の顔どころか身体までも飲み込んで、ぱたりと床に落ちた。額縁は隙間を埋

 めて、一枚の絵になった。顔のない彼女がそこにいる。

    余白の無い絵を手に入れて、静寂を作ることが出来た僕は、ようやく喜べた。喜びには

 起伏がなく、なめらかだ。疲れ果てた僕に覆い被さり、呼吸を落ち着かせてくれる。

    それでもまだ、彼女の視線を感じる。彼女が発している音を感じる。

    「しょうがないな……。そうも思ってないけど、でもしょうがないな」

    ゆったりと彷徨い続けている旋律が、彼女にたどり着きたそうにしている。僕は彼女の

 顔がどんな形をしていたのかもう忘れている。腐った柿のような匂いに、顔を顰めた。記

 憶に手を伸ばすことさえ、僕は捨てている。なんにしろ、眠たい。

    「そばにいてくれる?」

    旋律が僕に伝える。

    「必要だって言ってくれる?」

    僕は、もはや彼女ではないそれに返事をする気はない。どうしてもなら、の譲歩も許し

 ていない。がらくたの道化が足をばたばたさせたところで、何だと言うんだ。そんな僕の

 気持ちも、本当の苛立ちになる前に氷解した。

    耳を澄ますのをやめようとしたところで、途端に旋律が狂い出した。暴力を上乗せされ、

 旋律が曲げられていく。磨かれていた音たちが、ぶつかり合って削られる。

    僕はすでに半分眠っている。今更旋律が壊れ始めたところで、頭の上を掠めるだけだ。

 丁度いい微風に、僕はもっと眠たくなった。

    そんな僕に、彼女に似たものは必死になって音を増やす。僕は眠気に導かれ、逆らうこ

 となくそれに従う。怒りの旋律は悲しみになって、諦め悪く僕を呼び止めようとする。

    「ごめん、無理だ。ごめん」

    僕はうなだれながら詫びた。僕はほとんど眠ってしまっていた。乾いた絵筆が擦り付け

 られたように、目の前の景色が飛び散って見える。ぼやけた視界のなかでは、絵本のように愛おしく思える。

    彼女に似たものは叫ぶ。雲を晴らせ。旋律を聴け。私の質問に答えろ。

    僕は抵抗することもないまま、おざなりに首を振る。彼女が憎いわけではないのだ。だ

 けど、粘りついたものが乾いたわけでもないのだ。

    もっと旋律が狂い出す前に、彼女の絵を抱き寄せた。まだあたたかい。

    「……よしよし」

    額縁の裏側を撫でていると、腹の辺りが濡れてきた。彼女の顔がない部分だ。雲が外に

 滲み出しているらしかった。水蒸気を吸い続けた生地は、限界を超えると僕の足も濡らし

 始めた。

    消えかかっている額縁の彼女は、旋律からもいなくなろうとしている。僕がうれしいと

 思うはずがない。悲しいとも思わない。僕の気持ちは、今はここにはないから。

    「許してくれなくてもよかったのにな……」

    僕はなくなっていくぬくもりを確かめながら、ゆっくりと眠りのなかに足を下ろした。





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