夜が近付き、僕らの街は橙に沈む。オレンジの果汁を何十倍にも水で薄めたものが空か

 ら零されたような、そんな涼感と透明感が夕闇の時間帯に溶けていた。ゆらゆらと揺らめ

 く波紋は見えない。悠々と風がさらっていく。

    撒き散らされた残滓が世界を濡らし、透明に色を擦り付けたかと思えばすぐに夜へ蒸発

 する。それは本当にわずかな時間だ。残滓は肌にも滲みて、一センチだけの厚さを持って

 滲みて、僕らをとりこにして動けなくする。

 「おー、おー」

    彼女は僕が思いに耽るのも意に介さず、とぼけた頓狂な声を上げながら赤茶けたフェン

 スによじ上った。とても軽い彼女が乗ってもぎしぎしと軋む、錆だらけのフェンスはさな

 がら僕と彼女が持つ世界を区切る境界線のようだ。ネットの部分は指でひっかけ少し力を

 入れたらたやすく折れて、プレッツェルのように食べることが出来そうだ。鉄臭さと呆気

 ない歯ごたえを楽しむ。

 「カタグルマして」

    猫のように四つ足(二つの足と二つの腕を掛けたもの)で自分の体を支えるようにして

 フェンスを引っ掴んでいる。僕がてきとうに着付けた振袖はほとんど崩れてしまっている。

 とりあえず帯だけ整えてきつく縛ってやってから、

 「おいで」

    と、彼女に背を向けた。

 「と、あ」

    彼女は僕の頭をもみくちゃにする勢いで掴み、まだ幼く短い足で宙を蹴るようにして肩

 に座った。

    それと同時に茂みから黒猫が飛び出し、フェンスに小さな頭をぶつけた。ずんぐりと太

 った、丸々とした猫だ。猫はぶつけた頭が痛むのかしばらくうずくまるようにしていたが、

 やがて目の前のネットを噛もうと顎を小刻みに動かし始めた。歯みがきのつもりかな。そ

 れは犬がやることだけど、猫もやるのかな。

 「ねこ、ねこ」

    彼女が手をばたつかせるので、彼女を片手で支えつつ猫を抱き上げた。人馴れしている

 らしく、すんなりと抱き上げることが出来た。見た目よりは軽い。

 「ねこ、ねこ」

    歌うように喜ぶ彼女と対照的に、猫は苦しそうに喉を鳴らす。しかし次第に一人と一匹

 の鳴く声は重なり、下にいる僕は滝にでもなった気分だ。

    猫が野太く鳴くのが眉間を通って、眼鏡を支えている鼻の上を刺激して疲労を引き出し、

 しかしそれをすぐさま癒すような、目が潤んでいるようにふわりと宙に浮かぶ感覚に包ま

 れた。ぼやけた僕の世界のピントがずれだす。

    からからと風見鶏が、枯れた落ち葉と狂うように回る音が聞こえる。しかしそれは風音

 が僕の鼓膜を好き勝手に叩いているだけなんだろう。周りにそんなものはない。遠くにあ

 ったとしても、そんなかすかなもの聞こえるはずがない。横目だけ振り返っても、シダレ

 ヤナギが首をもたげるようにして揺れているだけだ。

 「帰ろうか」

    と提案してみるものの、

 「いや、いや」

    彼女は首だけでなく体ごと左右によじり嫌がる。

 「わかった、わかった」

    暴れられても面倒だから流れに身を任せることにした。

    そう考えたのもつかの間、いきなり彼女は「うあー」と泣きそうな声を上げた。何かと

 思えば、フェンスの向こう側に彼女が履いていた草履が転がっていた。小さな足に挟まっ

 ていた鼻緒が切れてしまっている。フェンスの向こう側には芝生が生い茂っているが、傾

 斜がかなり急な上、その下は公道だ。取りに行くのは少し危ないかもしれない、と僕は早

 々に諦める。

 「どうする?」

    一応彼女に尋ねると、

 「とってとって」

    頭を揺さぶられながら必死にせがまれた。

    しょうがないか、と僕が一歩を踏み出すと、猫が僕の目の間を通り、フェンスを踏み、

 芝生の上に降り立った。その巨体より小さな草履に飛びつく。

 「おお」

    取ってきてくれるのか?と期待したが、猫はちぎれた鼻緒にかじりつき、ガムを噛むよ

 うにいつまでも味わっている。おなかが空いているというより、草履と戯れているようだ。

    ぼんやりと眺めていると、つむじの辺りにある寝癖を遠慮なくぐいぐいと引っ張られた。

 「かえる、かえる」

    猫に草履を汚されたことが相当嫌だったようだ。

 「そうしようか」

    彼女を担ぎ直し、猫がまだ草履と遊んでいるのを確かめてから踵を返した。飾り気のな

 くなった左足を掴むとくすぐったそうに頬を蹴られた。眼鏡がずれて傾いた。





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